2017.01.17
日本の刺青文化と江戸時代の恥ずかしすぎる入墨刑を徹底解説
日本には長い刺青文化がある
刺青の入った人にネガティブなイメージを抱くことの多い日本でも、昔はタトゥーにファッション性以外の意味合いを持たせていた時代が存在していたようです。今回は、長い歴史の中で刺青文化や入墨刑が発展した頃の記録やデザインを見ながら、「日本ではタトゥーがどんな形で浸透・発展していったのか?」という話をしていきます。
日本ではいつから刺青文化が始まったの?
日本国内の刺青文化は、縄文時代には既に始まっていたとされています。古代日本に関して詳しく書かれた「魏志倭人伝」によると、女王卑弥呼の時代の男性たちは、そのほとんどが顔から体まで刺青を施していたという記録が残っています。縄文・弥生時代の遺跡から発掘された土偶の中にも、顔に刺青の入ったものが多く見受けられますので、古代日本におけるタトゥー・刺青はそれほど珍しい素材ではなかったと捉えて良いでしょう。
刺青を使った刑罰は江戸時代に始まった
現在の日本でタトゥーに根強いネガティブなイメージが付いているのは、江戸時代に始まった「刺青による刑罰」の影響です。江戸時代における「入墨」には、罪人への烙印という意味がありました。これに対してファッション目的で入れられるものには「彫り物」という呼称が使われていたようです。
江戸時代の入墨刑ではどんなデザインだったの?
江戸時代の歴史的書物を見ていくと、罪人に彫られた入墨のほとんどが大変シンプルなデザインだったことがわかります。江戸(現在の東京近郊)では、左上の肘下に9mmほどの太さを持つ横線が2本彫られていたようです。これに対して京都の場合は、12cm×9mmほどの縦に長いラインが2本二の腕の上に彫られるルールとなっていました。この他に肥前(現在の佐賀県)や高野山では、罪人の額に大きな刺青を施していたようです。こうした昔の文献によると、その地域によって入墨刑の内容やデザインは大きく異なっていたことがわかります。
まとめ
今になってみるとユーモアのように感じられる入墨刑も、「刺青が一生残る」と考えると大変厳しい処罰だったと捉えて良いでしょう。また入墨刑によるネガティブなイメージは現在の日本でも根強く残っていますので、社会生活に支障をきたさないためにも、タトゥーや刺青はなるべく入れない方が良いと言えそうです。
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